ジョン・ナッシュ 天才数学者の苦悩と成功
はじめに
ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアは1928年6月13日、アメリカ合衆国ウエスト・バージニア州にて生まれ、2015年5月23日、86歳で交通事故に遭い亡くなりました。
専門分野は微分幾何学で、リーマン多様体の研究に大きな功績を残しました。
ジョン・ナッシュが有名になった理由は有名なゲーム理論(対相手がいる状況で、どのような行動が最適であるかを推測する理論)でありナッシュ均衡でした。
ゲーム理論はむしろ研究期間としては博士課程在学中とその後のわずか数年間だけと短いものでした。それでも、ゲーム理論を経済学の応用として研究したことで、後に専門外であるノーベル経済学賞を受賞しています。
彼のゲーム理論は、現在、経済学をはじめ政治学や行動分析学などで広く用いられています。
数学の賞としては、2015年に非線形偏微分方程式論とその幾何解析への応用に関する貢献によりアーベル賞を受賞しました(賞金はノーベル賞と同額の、約1億円という大きな賞)。
このような功績に彩られているものの、彼の人生は決して平坦な道のりではありませんでした。
プリンストン大学で博士号を取得している頃、極度な妄想に取り付かれるようになり症状が悪化。病と戦いながら全てを失ったジョン・ナッシュは、やがて復活するのですが彼の人生は波乱万丈としか言いようがありません。
映画「ビューティフルマインド」はナッシュの人生について描かれた映画であり、彼の名前をが知れ渡るきっかけにもなりました。この映画の中では、プリンストン時代からノーベル賞を受賞する間の話が描かれています。ラッセル・クロウの演技は素晴らしく、ナッシュの統合失調症の症状を事細かく再現しています。
そんなジョン・ナッシュの生涯を辿ってみましょう。
ゲーム理論の確立まで
ナッシュは、高校3年生の時すでに地元の短期大学にて上級数学のクラスに出席していました。カーネギー工科大学(現在のカーネギーメロン工科大学)で学士号を取得後、プリンストン大学に博士課程を得るために進みます。
その時の逸話ですが、彼はハーバード大学にも入学許可をもらっていました。しかしながら当時のプリンストン大学の数学教授に懇願されたの事と、実家がハーバード大学よりもプリンストン大学の方が近いと言うこともあり、後者を選びます。
1950年に28ページの論文「非協力ゲーム理論」を提出し博士号を取得します。これが後にノーベル賞を受賞するきっかけになったゲーム理論でした。
発病と闘病
28歳の時、MIT(マサチューセツ工科大学)にて、すでに教職員の仕事を獲得していましたが、その翌年の1959年頃から精神的な病が仕事にまで影響を及ぼすようになります。
それは同年にコロンビア大学にて公演を行う際の出来事でした。その日の発表内容は「リーマン予想の証明」についてでしたが、パニック状態になりうまく公演をすることができませんでした。
その後病院で診断された病名は、統合失調症。MITでの仕事も辞退するはめになり、病気との戦いがここから本格的に始まります。
プリンストン大学へ復帰、研究の継続
ナッシュは、講義中「自分がローマ法王の姿で雑誌ライフの表紙になった」とか、「各国の政府の要人と付き合いがある」とか、「南極大陸の皇帝」を名乗ったりしています。
一週間ごとに人格が変わるようになり、挙げ句の果てに「自分は共産主義者に狙われている」といい、実際にヨーロッパに亡命してしまいます。
経済的に困窮した妻アリシアはナッシュを入院させます。インスリンを大量注射しては気絶させる壮絶な治療がナッシュを待っていました。目も背けたくなるような闘病生活でした。
退院したナッシュ無職だったため、彼を見かねた元同僚がプリンストン大学にポストを作ります。しかしナッシュは妄想を繰り返し仕事を投げ出してしまいました。
学生からは過去の人と馬鹿にされ、赤いスニーカーを履いて歩き回るナッシュは、プリンストン大学の幽霊とまで言われました。
やがて連れ添っていた妻、アリッシアとも離婚をします。彼はそんな状況でありながらも、数学の研究をすることをやめませんでした。
統合失調症からの回復、そしてノーベル経済賞受賞
その当時の統合失調症の治療方法は、インスリン・ショック療法(インスリンを投与し血糖値を強制的に上げ、昏睡状態にする療法)や薬物投与でした。
ナッシュは薬の副作用で研究に支障が出るため薬物投与を1970年頃にはやめることを決意します。そして1980年後半には症状もだいぶ落ち着き回復していきました。
それから10数年経った、1994年ゲーム理論の功績により、ラインハルト・ゼルテン、ジョン・ハサーニと共にノーベル経済学賞を受賞します。
数学者としての栄光と、あまりに突然な死
ジョン・ナッシュは症状が回復し妻アリッシアと再婚します。
そして2015年、ふたりは大きな喜びに包まれます。それも経済学で評価されたノーベル賞ではなく、数学で、待ち望んだ最高峰の賞を獲得したのです。
しかしふたりは、オスローで開かれていた栄光のアーべル賞授賞式からの帰り道、突然の悲劇に見舞われます。住まいのあるニュージャージーにて交通事故に巻き込まれたのです。
2015年の事でした。長い闘病生活を経て、最高の栄誉を獲得し、妻とも復縁できた彼にとって、あまりにあっけない最後でした。
これがなければ、きっと、ナッシュが闘病時代に失ったアリッシアとの時間を取り戻し、一緒に歩むことができたことでしょう。
ジョン・ナッシュの人生
ジョン・ナッシュの人生は人々に鮮明なインパクトを残しました。数々の賞を受賞し数学者としての地位を確立した事は素晴らしい偉業です。
しかし、真に偉大なのは、病気と闘いながら前に進んでいったジョン・ナッシュの生き様です。
彼は病におかされ心をなくした状況であったとしても、あきらめずに最後まで挑戦し続けました。全てをなくし心が壊れたときに、数学だけが彼の最後の希望の光でした。それだけを信じて前を向きました。そしてその信じる心こそが彼の持っている強さだったのではないでしょうか?