ボヤイ・ヤーノシュと平行線公準、非ユークリッド幾何学への情熱
はじめに 数学者、ボヤイ・ヤーノシュと平行線公準、そして彼の研究への情熱
ボヤイ・ヤーノシュは1802年にハンガリーで、数学者兼詩人のボヤイ・ファルカシュの息子として生まれ、1860年に亡くなります。
主な業績は、ユークリッドの「原論」における平行線公準について研究し、非ユークリッド幾何学の存在を提唱したことです。
父のファルカシュはヤーノシュに数学者の道を歩ませることを望んでいましたが、家計が貧乏であったため学費が払えず仕方なく軍人となったヤーノシュでしたが、それでも仕事の傍に数学の研究を続け、非ユークリッド幾何学の設立という大きな成果を出しました。
非ユークリッド幾何学という全く未知の世界の存在について考えたヤーノシュ。彼は、平行線が交わるといういままで考えたこともなかった新しい形の幾何学、非ユークリッド幾何学について、その創成期に大きな役割を果たしました。
軍人時代も数学の研究を進めたボヤイ・ヤーノシュ
ヤーノシュは幼い頃より数学に対して非常に卓越した才能を示しており、13歳の頃には父のファルカシュに代わって数学の講義を行うなどしていました。
軍人時代にヤーノシュが研究していた平行線公準については、ファルカシュも一時期研究対象としていました。しかし、あるときファルカシュの友人であったガウスに自身の考えを提唱したところ間違いを指摘されてしまい、それ以降平行線公準についての研究から離れていました。
ヤーノシュがファルカシュに自身の研究内容について伝えたところ、ファルカシュは自身の経験からかヤーノシュの研究をやめさせようとしました。しかしそれでもヤーノシュは平行線公準に関する研究を続けました。
その後、双曲線幾何学という非ユークリッド幾何学の一部を創り上げる段階までヤーノシュの研究が進むと、ファルカシュもヤーノシュの研究が確かに正しい結果へと向かっていると、その成果を受け入れました。
そしてヤーノシュに対して結果が出たらできるだけすぐに発表するように促しました。結果としてヤーノシュの論文はファルカシュの「試論」という書物に載せられることとなりました。
ファルカシュはヤーノシュの論文を切り取り、その評価をガウスへと求めました。するとガウスは「30年前にはもうすでに平行線公準から非ユークリッド幾何学が発生することには気づいていたが、世間が混乱すると考えあえて発表しなかった。」と主張しました。
その結果、ファルカシュは自らの息子がガウスと同じレベルの数学者となったと喜びましたが、対してヤーノシュ本人はガウスの評価にひどく傷つき落ち込みました。
ここでさらにヤーノシュに追い討ちをかける事実が発覚します。ヤーノシュが平行線公準に関する論文を発表する数年前に、ロシアのロバチェフスキーという人物によってすでに非ユークリッド幾何学の存在が提唱されていたのです。
さらに、記号が独特で大変読みにくいものであったヤーノシュの論文に比べ、ロバチェフスキーの論文の完成度は大変高いものでありました。
人生に絶望したヤーノシュは軍人をやめ、隠居生活を送ることとなります。隠居生活においても数学についての研究は行いますが、論文は一切発表しませんでした。
ボヤイ・ヤーノシュの死後の評価
生前においてヤーノシュの業績が評価されることはほとんどありませんでした。しかし、その後非ユークリッド幾何学についての研究が進むにつれて、徐々にヤーノシュの功績は評価されるようになります。
そして現在においては、双曲線幾何学はボヤイ・ロバチェフスキー幾何学と呼ばれることもあります。
トランシルヴァニアの旧ハンガリー王立フェレンツ・ヨージェフ大学は現在、細菌学者ヴィクトル・バベシュとボヤイ・ヤーノシュの名前に因んでルーマニア国立バベシュ=ボーヤイ大学と命名されています。
まとめ
ヤーノシュについて最も好感を持てる点は、ヤーノシュの自らの研究に対する情熱と自信です。
才能があったにも関わらず学問を学ぶための学校にも通えず研究者として生きることを諦めざるを得ないような環境であったのに、軍務を続けつつ研究を行い、父に反対されても平行線公準についての研究を続けたのは、数学への強い情熱に支えられたのでしょう。
自らの研究に対して人一倍の情熱をかけていた彼だからこそガウスの評価やロバチェフスキーの存在に対して心が折れてしまったと考えられます。そんな彼の研究に対する姿勢にも、学ぶべきことは少なくありません。