高木任三郎 大学を辞めて原発に警鐘を鳴らし続けた異端の核化学者

4月 24, 2018

はじめに 高木仁三郎 人生を賭けて原発に警鐘を鳴らし続けた研究者

高木仁三郎は1938年生まれ。東京大学理学部を卒業後、一旦は東芝傘下の日本原子力事業に入社するも、1965年に再び研究の世界へと戻ります。

研究分野は核化学でした。1969年には東京都立大学(いまの首都大学東京)の助教授として任官しますが、1973年に再び研究の世界から足を洗います。人々の為になる科学者として生きたいという思いからでした。

1975年には、原子力情報資料室の設立に参加し、死ぬまで原子力発電所に警鐘を鳴らし続けました。波乱に満ちた人生でした。

高木仁三郎の名前を始めて目にしたのは、本屋でふと手にした新書でした。『市民科学者として生きる』。その表題の本に、最初ピンときませんでした。

科学者というのは、大学で教授というポストに就き、学生を教えながら研究に勤しむ人たちだと思っていたからです。高木仁三郎は、大学人としての科学者を拒否し、一般市民に科学を啓蒙し続けました。誰にでも真似できることではないでしょう。

東京大学から東芝系の企業へ 原子力事業との出会い

高木仁三郎の人生は波乱に満ちていると言ってもいいでしょう。

東京大学理学部化学科を卒業したあと、東芝系の日本原子力事業へと入社します。東芝と言えば、アメリカのウエスチングハウスという原子力関連企業を傘下に入れましたが、不採算のため東芝本体を苦しめることとなったことは、記憶に新しいと思います。

東芝は昔から原子力事業に力を入れていたのです。

しかし、なぜか高木仁三郎は日本原子力事業を辞め、再びアカデミズムの世界へと復帰します。企業人としての生き方が合わなかったのでしょう。

与えられたポストは、東京大学原子核研究所助手でした。高木は、原子核という魔物に取り憑かれたかのように、研究へと邁進していきます。

1969年には、東京都立大学の助教授に赴任します。

湯川秀樹や朝永振一郎のような、世界から認められるような華々しい業績を残す科学者もいます。他方で、高木仁三郎のように核化学者として地道に研究している科学者も数多いでしょう。

助教授時代の一般向けの著書はありません。そのまま行けば、普通の核化学者として一生を終えるはずでした。だが、そうではありませんでした。

1973年に、東京都立大学の助教授を辞任します。大学教員としての生き方もあわなかったのです。一般市民の為になっているのだろうか、そういう思いがあったそうです。

しかし、大学を辞めても仕事はありません。翻訳で生計を立てていましたが、知人からの誘いで、原子力情報資料室の設立に関わることになります。

反原子力発電所というスローガンのもと、市民運動が盛んであった1970年代のことです。

最初は、研究者として冷静な原子力発電所開発を俯瞰しようというスタンスでいた高木仁三郎でしたが、大きく旋回することになります。原子力発電所の安全性に疑問をもち、その危険性を科学者の立場から訴えました。

原子力情報資料室時代の、著作は数知れず、高木仁三郎著作集が発行されるほどの分量です。

1998年に癌が見つかり、原子力情報資料室を離れます。2000年に死亡。東日本大地震での原発事故を見ることはありませんでした。

東日本大震災で脚光 没後の再評価

高木仁三郎の名前を再び見るようになったのは、東日本大地震のときでしょう。

福島第一原子力発電所の事故がありました。この事故により、放射線物質が大量に放出されてしまいました。

ソ連(現ロシア)のチェルノブイリ原発事故や東海村の臨界事故の際も、高木仁三郎は警鐘を鳴らし続けました。原子力発電所は危険である、と。

海外の学会誌に何百ページにも及ぶ研究論文を提出したこともありました。

東日本大地震のとき、高木仁三郎ならば、もっと有用な提言をできたのではと考える人も多いでしょう。しかし、高木仁三郎の代わりとなるような科学者は、もう日本には存在しませんでした。

高木仁三郎の遺したものは、市井の科学者として生きること、人々に科学とはどうあるべきかを説き続けたことでしょう。

高木仁三郎の意思を継いで、原子力資料研究室はいまなお、反原子力発電所を提言し続けています。それだけではありません。一般向けへの著作も多いです。科学を啓蒙していく立場のもと、理系文系という垣根を取り払って、われわれにメッセージを届け続けています。

敢えて茨の道を選んだ高木仁三郎の人生

おそらく、大学助教授を辞めていなければ、順風満帆な生活を送れたでしょう。62歳という短い生涯で終わらなかったかも知れないです。

それほどまでに、人々に科学とはどうあるべきを説き続けること、原子力発電所は安全なのかどうかを訴え続けることは、とてもエネルギーの必要なことだったのかもしれません。

しかし敢えて茨の道へと進み、確固たる業績を残した高木仁三郎は、研究者の枠を越えた人間としての魅力に溢れています。