浅島誠氏 細胞を組織に分化させる発生生物学の始祖

4月 24, 2018

浅島誠氏 細胞を組織に分化させる発生生物学の基礎を作った天才科学者

浅島誠氏は1944年に新潟新潟県佐渡市に生まれた生物学者で、卵細胞から角膜や心臓といった実際の組織に分化させる誘導物質アクチビンを世界で初めて同定しました。

未来の再生医療の実現のためにはiPS細胞と同等の重要な研究といえるでしょう。実験材料のイモリを自宅で30年間飼っている奇人でもあります。しかし浅島誠氏の業績がなければ、iPS細胞だけでは何もできません。それほどの優れた業績を残しています。

しかし、浅島誠氏があまり注目されていないのはおかしいと感じます。また、科学者としての業績は40歳までで、それ以降はマネジメントに従事したのは非常に残念でもあります。

大学受験用の生物の参考書には「理解しやすい生物(文英道)」を使っていましたが、その筆者が浅島誠氏でした。この参考書の動物の発生のところで、教科書にはないが、さりげなく自分の名前を登場させていたのを記憶しています。

浅島誠氏は1988年に中胚葉誘導因子アクチビンを世界で初めて同定 器官・臓器誘導系の確立に注力

子どものことはどうしてカエルの卵はカエルになるんだろう、どうして桜は春に咲くんだろうと、素朴な疑問に出会いながら育った浅島誠氏。野山に囲まれた新潟県佐渡市に生まれ、「生き物は面白いなあ」と感じながら成長しました。

最初は子供に自然の魅力を伝える高校教師になることも考えていた浅島誠氏。しかし、神田の古本屋でドイツの生物学者ハンス・シュペーマンという人の伝記と出会い、自分の進む道だと確信しました。その後は研究の道に。

浅島誠氏は1963年東京教育大理学部に進学した。さらに1967年、東京大学の理学系大学院に進学し、ウニ胚の発生過程における色素形成について研究し1972年に博士課程終了。

同年、ドイツ(当時西ドイツ)のベルリン自由大学に留学。さらに胚の研究を進めました。1974年に留学先のドイツから帰国して横浜市立大学の助教授となりました。

日本の科学者ではよくあるエピソードですが、浅島誠氏も研究費が少なかったので、クリーンベンチなどの実験道具は自作しました。冷蔵庫も中古品を使用していました。

1985年には 横浜市立大学文理学部教授になり研究を進めました。そしてついに、1988年、中胚葉誘導因子アクチビンを世界で初めて同定、器官・臓器誘導系の確立にも注力した。ノーベル賞級の発見を成し遂げたのです。

浅島誠氏は1993年に東京大学教養学部教授に転籍しました。おそらく、このころ高校生物の受験参考書を執筆。人望も厚く、1995年東京大学総長補佐に選出されます。1996年には東京大学大学院総合文化研究科教授となり、2007年まで東京大学学部長を務めました。

2006年には産業技術総合研究所器官発生工学研究ラボ長も兼任。2007年には東京大学退職されましたが、東京大学理事(副学長)に就任。同年6月には東京大学名誉教授に選出されました。

2009年4月には 産業技術総合研究所フェローとなり、2010年4月 – 産業技術総合研究所 幹細胞工学研究センター長 兼任 筑波大学 生命領域学際研究センター長。2013年4月には 産業技術総合研究所名誉フェロー。現在は東京理科大学副学長。

おそらく、晩年は研究ができないほど多忙を極めたと思われますが、発生に関する業績が輝いていることはいうまでもありません。ものすごい業績と役職を歴任しておられます。

発生生物学に関係する科学者はすべて浅島誠氏の影響を受けている

おそらく、発生生物学に関係する科学者はすべて浅島誠氏の影響を受けているでしょう。もちろんiPS細胞の山中伸弥氏もあまり口にはしていないが、感化されているでしょう。

再生医療としてiPS細胞だけが注目されているが、私は卵細胞から組織に分化させるメカニズムを解明しテクノロジーを開発した浅島誠氏という日本人生物学者が30年前に存在したことに感銘しました。

DNAの二重螺旋構造の解明のように欧米の科学者の競争はギスギスしたものが多いですが、浅島氏はどちらかと言えば鷹揚としておられて好感が持てます。しかし、世界で初めて自在に発生を操る術を編み出したのは凄いとしか言いようがありません。