二コラ・レオナール・サディ・カルノー 彼なしでは車も電気も高級品

4月 24, 2018

二コラ・レオナール・サディ・カルノー 死後に高まった評価

二コラ・レオナール・サディ・カルノーは1796年にフランスのパリで生まれ。1832年に亡くなった科学者で工兵です。

彼は1823年に「火の動力」という本を出版し、熱を利用した機関(蒸気機関やガソリンエンジンなど)を科学的に論理化しました。

現在で例えれば、スマホのバッテリーはどこまで容量を高められるかをバッテリーの材質を全く考慮せずに考えるような研究です。比較的新しい技術であるにもかかわらず、新しい概念を作ってまできちんと理論化し、そしてその限界まで考えた発想が彼のすごいところです。.

カルノーを知ったきっかけは熱力学の授業です。授業で理論上最大の熱効率となるカルノーサイクルを学びました。そのときカルノーは人名ではないかと思い調べてみたところそうだったので彼の存在を知りました。

一般には知られることの少ない科学者ですが、その功績はとても大きなものでした。今も特別に有名ではないのですが、生前はほぼ評価されることがなかったといいます。

軍人から科学の研究に進んだカルノー 名著「火の動力」を出版

二コラ・レオナール・サディ.カルノーは1796年にラザール・二コラ・マルグリット・カルノーの長男として生まれました。ラザール・二コラ・マルグリット・カルノーはフランス革命戦争においてフランス軍の軍制改革を主導した軍人であり、同時に数学者でもありました。

1812年、二コラ・レオナール・サディ.カルノーはエコール・ポリテクニークに入学、1814年に卒業後、公務実施学校工兵科へと進み、技師として活動しました。

1819年、軍で中尉に任命されますが、その後休職し、パリ近郊で芸術鑑賞の傍らで熱機関や化学の研究を行いました。

1824年、カルノーは「火の動力、および、この動力を発生させるのに適した機関についての考察」を出版します。この本は、これまで勘で作られていた熱機関について、熱に「動力」という概念を適用し、その上で最大の効率となる熱機関であるカルノーサイクルの動作原理について記述されていました。

カルノーの定理の功績

カルノーは、熱から動力を生み出すためには、熱が高温の物体から低温の物体へ移動することが必要だと考えました。また効率を上げるには、機関が初めの状態に戻ってきて同じ動きを繰り返すこと(可逆的であること)が必要だとも考えました。

さらに、可逆機関の熱効率が最大であるとき、その熱効率は熱源の温度だけで決まり、熱を伝える物質には依存しないことを導きました。

これは現在カルノーの定理と呼ばれています。

カルノーはまた、気体の変化についても研究し、気体の体積変化などにおける法則も導きました。

これらの法則は現在でも、エンジンの効率を求めるのに使われており、これなしでは今頃車のエンジンは効率が悪すぎて使い物にならず、発電所で作られる電気も効率が悪くて電気が高級品だったかもしれません。

この本は、当時はあまり反響がありませんでした。カルノーは1826年に軍の工兵隊に戻り大尉となりますが、1828年にまた研究者に戻ります。研究途中の1832年にコレラに感染し、36歳の短い生涯を終えました。

カルノーの影響は彼の死後、現代まで続く

カルノーが考えた熱機関の解説は、のちに誤った熱量保存則に基づいていたことが分かりました。しかし、カルノーの定理やカルノーサイクルはのちに正しいことが証明され、カルノーは死後評価されるようになりました。カルノーが使っていた「仕事」という概念が物理化学分野ではなじみが薄かったことが原因とも言われています。

カルノーは、エミール・クライペイロンやウィリアム・トムソンといった研究者に影響を与えました。彼の理論が正しいかの検証を通じて新たな法則も導かれ、のちに現在でも広く使われている熱力学第二法則の完成につながっていきます。

カルノーは工兵ながら熱機関に関心を持ち、その科学的な原理や理論上最大となる熱機関について研究しました。

彼のすごいところは身近な最新技術に対して夢をみる普通の人とは違い、早い段階から限界を求めたことや、工学と物理の橋渡しとなる理論を作った先進的なところです。

この時代に、特別な大きな努力をするわけでもなく重要な法則をやすやすと発見したのは、カルノーの科学的な視線の素晴らしさによるものだと考えます。