牧野富太郎 日本が世界に誇る植物学の父 牧野日本植物図鑑の金字塔

11月 15, 2018

牧野富太郎 独学で成し遂げた金字塔

牧野富太郎は、日本が世界に誇る偉大な植物学者です。

1862年5月22日(文久2年4月24日)土佐国佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)に生まれ、1957年(昭和32年)1月18日に94歳で亡くなるまで、その生涯は常に植物と共にありました。

生涯に集めた植物標本は約40万点。命名した植物は約2500種。

1940年(昭和15年)に刊行した『牧野日本植物図鑑』は、植物学の金字塔として、研究者のみならず植物学を学ぶ者のバイブルのように敬意をもって読み継がれています。

日本における植物分類学の礎を築き、東京大学でも植物学の講義をおこなっていた富太郎ですが、学歴は小学校を二年で退学。

前人未到の業績と共に、それらが独学で成し遂げたられたものであったことも驚嘆すべき偉業であり、今なお世界中の植物学を志す者からの称賛はやむことがありません。

牧野富太郎 土佐の植物少年

富太郎は土佐の造り酒屋の息子として生まれます。早くに両親・祖父を亡くし、明治維新の転換期に祖母に育てられます。

学制改革によって藩校だった名教館(めいこうかん)も佐川小学校となり富太郎も入学しますが、この小学校をわずか二年で自主退学します。

小学校をやめた後は、植物の観察や採集、写生に明け暮れる毎日を続けていた18歳の富太郎に出逢いが訪れます。

江戸時代の本草学者小野蘭山の『本草綱目啓蒙』や、宇田川榕庵の『植学啓原』などを通して日本での植物の名前や分類方法など独学ですでに学んでいた富太郎でしたが、高知師範学校の教師だった永沼小一郎によって欧米の植物学の世界を知ることとなるのです。

富太郎は2度目の上京で、22歳にして東京帝国大学(現在の東京大学)の矢田部良吉教授らに認められ、理学部植物学教室への出入りを許されます。

文献や標本も自由に見ることのできる環境で、さらに植物研究に邁進する日々を送ります。

牧野富太郎 植物図鑑と業績

富太郎は同じ植物学教室の仲間と、『植物学雑誌』を共同で創刊。

25歳で創刊したこの『植物学雑誌』は、現在も『Journal of Plant Research』として刊行され続けています。

さらに翌年、26歳で植物の図鑑の自費出版を果たします。

この『日本植物志図篇』は、植物図も富太郎自身の描いたものを使い、自ら神田錦町の石版屋より石版印刷の技術を学んで心血を注いだものでした。

富太郎の植物図は、「牧野式植物図」とよばれ、種の平均的な特徴が描写されています。

牧野式植物図の影響を受けた画家や研究者は多く、日本におけるボタニカルアートの先覚者太田洋愛もそのひとりです。

続いて新種ヤマトグサに学名をつけ、『植物学雑誌』に発表。

水生植物ムジナモを発見し、学術論文として発表するなどの業績をあげ、日本国外からの富太郎への評価も高まる中、植物学に没頭するあまり周囲との軋轢も起こり始めます。

矢田部教授からは研究室への出入りを数年間禁じられ、後任となった松村任三教授には助手として研究室に呼び戻されますが、後には松村教授とも関係が悪化し冷遇された時期も続きました。

これは富太郎の業績に対する妬みや反感とともに、植物研究に没頭し、周囲への配慮が行き届かなかったこともあったようです。

それでも富太郎の植物に対する真摯な姿勢を認めないものはおらず、助手としての勤務も含めて、77歳で東大の講師を辞めるまで50年以上植物学教室で研究と指導を続けました。

小学校中退の富太郎でしたが、研究が認められ、65歳で東京大学より理学博士の学位も授与されています。

植物研究に全てを捧げ、経済的に困窮することもあった富太郎を妻の壽衛は料亭を始めるなどして物心ともに支えます。

妻の壽衛は54歳で亡くなりますが、富太郎は発見した新種の笹に、苦労をかけた妻の名から「スエコザサ」と命名しています。

牧野富太郎 植物研究の集大成

晩年の富太郎は、朝日文化賞受賞、文化功労者、東京都名誉都民第一号など、これまでの業績が認められる栄誉を得る機会が増えます。没後には従三位に叙され、文化勲章と勲二等旭日重光章を授与されることとなります。

植物学の権威として高い評価を受け、それでもなお、各地をまわって植物採取を続け、植物愛好家の指導にあたり、植物についての知識を一般にも広めることにも貢献しました。

富太郎が発見し命名した数は、現在日本(北海道、本州、四国、九州)で知られている種子植物(約4000種)とシダ植物(約400種)の半数以上にもなるのです。

1940年(昭和15年)、78歳にして、これまでの研究の集大成ともいえる『牧野日本植物図鑑』を刊行します。この図鑑は改訂を重ねながら今も刊行され続けている植物学のバイブルのような図鑑です。

1957年(昭和32年)94歳で家族に見守られ永眠。遺骨は分骨され、台東区の谷中の天王寺と郷里の佐川町に葬られています。

翌年、高知県立牧野植物園、練馬区牧野記念庭園が開園、東京都立大学理学部牧野標本館が開館しましたが、富太郎が遺した約40万点もの標本の整理に半世紀の時間が必要だったとのことです。

あらためて、その膨大な量に驚かされます。

1948年(昭和23年)、86歳になった富太郎に昭和天皇への御進講の機会が訪れます。

植物への造詣が深かった昭和天皇は富太郎の研究を高く評価しておられ、病気療養中の富太郎にアイスクリームを見舞ったというエピソードがあるほどです。

最後に昭和天皇の言葉と誤解され伝えられた富太郎の言葉をご紹介します。それは富太郎の生涯に通じる言葉です。

「雑草という名の植物は無い。すべての植物には名前がある。」