カール・エドワード・セーガン 宇宙に魅入られた天文学者

11月 15, 2018

宇宙に魅入られた天文学者 カール・エドワード・セーガンの生涯

カール・エドワード・セーガン(Carl Edward Sagan)は1934年11月9日にアメリカのニューヨーク市ブルックリンで生まれました。

天文学者や惑星科学者であり、またSF作家でもあるというさまざまな顔を持っていたセーガン博士は、元々はコーネル大学教授の同大学惑星研究所所長であり、NASAにおける惑星探査の指導者でもありました。

また惑星の地質学や物理学についての研究で多大な功績を残し、日本惑星協会の設立に尽力した人物でもあります。

さらに核戦争は地球規模の氷河期を引き起こすとした仮説「核の冬」や人間が住めるように惑星環境を変える「テラ・フォーミング」などを提唱し、またビッグバンからの宇宙の歴史を1年に置き換えた「宇宙カレンダー」などを発案したことでも知られます。

また太陽系の惑星探査の推進にも尽力しました。

その著作はテレビ番組にもなった「コスモス」とその続編の「惑星へ」をはじめ、映画化された「コンタクト」、「エデンの恐竜 知能の源流をたずねて」など科学啓蒙書からSF小説まで多岐にわたります。

1968年にはその文才や巧みな話術を生かし、太陽系研究の雑誌「イカロス」の編集長に就任しており、疑似科学への反論も行っています。

1996年12月20日に亡くなるまで天文学者としての情熱は衰えることはありませんでした。

人気ドキュメンタリー番組「コスモス(COSMOS)」に出演していたセーガン博士

セーガン博士の名前が一般に広く知られるようになったきっかけは、世界のおよそ60カ国で放映され、視聴者は5億人ともいわれていた人気ドキュメンタリー番組「コスモス(COSMOS)」でした。

宇宙や生命について分かりやすく解説した内容や素晴らしい映像に感動し、夢中になって見ていた記憶がある人も多いでしょう。

博士が話す宇宙についての話には天文学に対する純粋な憧れや好奇心がよく現れており、感動を覚えたこともよく覚えています。

また天文学者であるセーガン博士の穏やかな表情に日本語の吹き替えが非常にマッチしており、印象深く心に刻まれている人も多いでしょう。

天文学者 カール・エドワード・セーガンの経歴

1951年にセーガン博士はシカゴ大学に入学。1955年に物理学の学士号、1956年に修士号を、さらに1960年には天文学と天体物理学で博士号を取得しています。

その後、1960年から1962年の2年間はカリフォルニア大学バークレー校でミラー研究員を、1962年から1968年までの6年間はスミソニアン天体物理観測所で研究員として勤めていました。

ハーバード大学で教鞭をとった後コーネル大学へと移り、1971年に正教授になり、ついに惑星科学の研究室を率いる存在となりました。

古くは1960年代から始まった金星、火星探査の「マリナー計画」、1972年と1973年の木星、土星探査の「パイオニア計画」、また1975年の火星探査「バイキング計画」に携わり、さらに海王星にまで範囲を広げた1977年の外惑星探査「ボイジャー計画」では、画像研究チームの一員としても活動しました。

この「ボイジャー計画」においては地球外知的生命に向けたメッセージを搭載することが考案され、地球の音楽や言語などが記録されたゴールデンレコードがボイジャー1号2号に積み込まれました。

セーガン博士は1989年の木星探査「ガリレオ計画」にも関わっています。

1980年から1990年代前半のアメリカでは、セーガン博士はNASAの惑星探査の多くで指導的役割を果たした最も有名な科学者の一人であったと言えるでしょう。

宇宙生物学、天体生物学など圏外生物学の開拓者でもある彼の業績には、生命科学とのつながりが深いものが多く、地球外知的生命体探索計画と呼ばれる「SETI計画」も推進しました。

この最も有名な天文学者の一人であるセーガン博士は、1974年にジョン・W・キャンベル記念賞とクルンプケ・ロバーツ賞を、1978年にはピューリッツァー賞 一般ノンフィクション部門、1981年にはヒューゴー賞ノンフィクション部門をそれぞれ受賞しています。

また受賞歴はこれだけに留まらず、1985年には本田賞、1986年にはローカス賞 第一長篇部門を受賞し、さらに1990年にはエルステッド・メダルを、1993年に公共の科学理解のためのカール・セーガン賞を受賞しています。

ちなみにセーガン博士は生涯で3度結婚しており、最初の妻は生物学者のリン・マーギュリスでした。

セーガン博士の晩年、そして死後

セーガン博士は1994年に骨髄異形成症候群と診断され、その2年後の1996年に亡くなっています。

博士が病気になった際、セント・ジョン大聖堂やガンジス川で、多くのヒンドゥー教徒や北アメリカのイスラム指導者が病気回復のために祈りを捧げたと言われています。

実は、博士は宗教または輪廻転生に関しては懐疑論者でしたが、多くの人の善意に勇気づけられた、との言葉を残しています。

博士の死後1997年7月に火星表面に着陸した火星探査機の着陸地点は、博士の功績を讃え「カール・セーガン記念基地」と名付けられました。

同年にはアメリカ天文学会が宇宙の研究と理解のために寄与した人物、団体に贈られるカール・セーガン記念賞を創設し、ニューヨークタイムズは博士の死の 3 年後、「カール・セーガンは死してなお宇宙規模の影響力を持つ」という記事を掲載しました。

セーガン博士が影響を与えた人々

科学者や天文学者はもちろんですが、作家や学生など、セーガン博士から影響を受けた人は、きっと世界中に数多くいることでしょう。

その中にはNASAに所属し宇宙開発に携わっている人や、セーガン博士の作品をドラマ化や映画化した業界人、毎夜カメラのレンズを通して宇宙の星々を撮影している天体写真家なども含まれていることでしょう。

例えば5億人の視聴者がいたと言われている「コスモス」を見ていた人のうち、影響を受けた人がたとえ100分の1だと仮定してもその数は膨大なものとなり、そのあまりの影響力の大きさに圧倒されてしまいます。

セーガン博士の残したもの

天文学者であるセーガン博士の一番の功績は、惑星探査の黎明期と言われていた時代に、一般人には難しい専門用語や科学的な事柄をわかりやすく解説し、宇宙や科学への門扉を多くの人々の前に開いてくれたことにあります。

さらに小説などでそれらをさらに分かりやすく世間一般に伝えてくれたことにも私達は感謝しなければなりません。

博士は生前、人間の身体を構成しているカルシウムや鉄分は星由来のものであることから「人はみな星の子だよ」と言っていたそうです。

その言葉を自ら体現するように、セーガン博士は62歳という若さで宇宙の果てへと旅立ちました。

博士は亡くなることで生涯憧れ続けた宇宙へと還り、星の子になったのかもしれません。

頑固でしかし愛すべき一科学者として、彼は最後まで自分の思いを貫いたのかもしれませんね。