エルヴィン・シュレーディンガー 量子力学と恋愛に生きた数学者

エルヴィン・シュレーディンガーの生い立ち

エルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガーは、1887年8月12日、オーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで父ルドルフ・シュレーディンガー(Rudolf Schrödinger)、母エミリー・バウアー(Emily Bauer)の間に誕生しました。

有名な物理学者であり、1961年1月4日に73歳で亡くなるまで量子力学の基礎となるシュレーディンガー方程式の発見、「シュレーディンガーの猫」と呼ばれる思考実験などさまざまな功績を残しました。

エルヴィン・シュレーディンガ 量子力学への情熱

シュレディンガーという名を広く世に知らしめることになったのが「シュレーディンガーの猫」という実験です。

これは射影公準における収縮がどの段階で起きるのかが明確でないことにより引き起こされる矛盾を示すことを狙いとした思考実験であり、量子力学の確率解釈を容易な方法で巨視的な実験系にすることができることを証明しました。

またシュレディンガーは、そこから得られる結論の異常さを示して批判し、自らこのことをパラドックスと呼んだことで一躍脚光を浴びることとなりました。

1887年ウィーンで生まれたエルヴィン・シュレーディンガは、1906年ウィーン大学に入学し、物理学を専攻します。

1920年にフリードリヒ・シラー大学イェーナにてドイツの物理学者マックス・ヴィーンの助手を務めた後、1934年にはアメリカ合衆国へ渡り、プリンストン大学で講義を行いました。

その後1948年にアイルランドの市民権を得た彼は、1952年『科学とヒューマニズム』を著します。

1955年に定年退職後、第二次世界大戦後の1956年にはオーストリアに帰国し、母校であるウィーン大学の教授に就任しました。

1958年には人間の意識の解明に取り組んだ『精神と物質』を著し、3年後の1961年に結核のためウィーンで亡くなるまで量子力学に対する情熱は衰えることはありませんでした。

学者としてはまさに非の打ち所がないほど優秀なシュレディンガーでしたが、私生活は恋多き人生であり、結婚制度をブルジョア価値観と軽蔑し、妻以外の女性と関係を持ち三人の子供をもうけました。

しかも三人の子供の母親は全員違っており、ここから彼の恋愛に対する奔放さや快楽主義がうかがえます。

また世間からは認められることはありませんでしたが、50才を越えてから12才の少女に恋心を抱いたというエピソードも残されています。

さらに、シュレディンガーは自身と関係をもった10代の少女も含む女性達全員をリストアップしていたとも言われています。

数学者でありシュレディンガーの友人もであるヘルマン・ワイルによれば、シュレーディンガーが大発見を果たした30代後半は、ワイルいわく「遅れてきたエロスの噴出の時期」であったそうです。

ちなみにワイルはシュレーディンガーの妻アニーと不倫関係にあったとも言われており、このエピソードだけでもシュレディンガーがいかにドロドロした人間関係や恋愛模様に巻き込まれてかがよくわかります。

エルヴィン・シュレーディンガの晩年、そして死

晩年シュレーディンガは、祖国オーストリアに帰りたいという思いをたびたび周囲に訴えていたそうです。

しかしその願いは叶えられることはなく、エルヴィン・シュレーディンガーは結核のため、1961年に73年の生涯を閉じました。

「アニーちゃん、僕のそばにいておくれ、僕が下へ墜落しないようにね」と枕元の妻に言ったのが、シュレーディンガーの最期の言葉となりました。

シュレーディンガーが影響を与えた人物

シュレーディンガーが影響を与えた人物としてまず挙げられるのが、デンマークの理論物理学者ニールス・ボーアです。

ニールス・ボーアはシュレディンガー方程式を解くことより、自らの提唱した量子論の結果を完璧なものとし、その地位を確固たるものとしました。

つまりシュレーディンガーがいなければ、偉大な理論物理学者ニールス・ボーアは誕生しなかったかもしれません。

このことだけでもシュレーディンガーが、いかに優れた人物であるかが分かります。

 エルヴィン・シュレーディンガー その人物像

良家の裕福な家庭に生まれ育ち、親の愛情を一身に受けて育ったシュレディンガーでしたが、けしてその敷かれたレールの上を走るだけの人生ではありませんでした。

その研究は時には過激であったりまた破天荒であったりし、プライベート、特に恋愛面においては大変な奔放さの垣間見れる人物であったと言えます。

しかしそこには人間的な魅力もあり、学者という枠だけでは収まりきれないような大きな人物であったとも言えるでしょう。