カントール 心を病んだ数学者は集合論的にどこに帰属できたか
ゲオルク・カントール 集合論の基礎を確立したドイツの数学者
ゲオルク・カントール(1845-1918年)は、現代数学を記述する上で欠くことのできない集合論の基礎を確立したドイツの数学者です。
ゼノンのパラドックスに代表されるように、古代ギリシャ以来人々の直感と相容れない姿を見せてきた無限。
カントールは、フーリエ級数を研究する中で、この無限という概念の曖昧性に気づき、自ら開拓した集合論を武器として、闇に包まれた無限のベールを一枚また一枚とはぎ取っていきました。
彼があみだした対角線論法という証明法は、その論理展開の鮮やかさで彼の名前とともに後世の人々に語り継がれています。
曖昧さを排除して厳密に 集合論の起源
学校や職場で「厳密に定義しろ」とか「曖昧な言い方をするな」とかいったお叱りを受けることがありますよね。しかし、厳密に正確に曖昧さを排除して物を語り伝えるには、どうすればいいのでしょうか。
私達が思うのと同じように、カントールも悩み続けたことでしょう。そして、たどり着いたのが集合論だったのです。
閉ざされ、傷ついた心 そして辿り着いた成果
カントールは1845年にロシアのサンクトペテルブルクで生まれます。父は敬虔なルーテル教徒であり、その影響でカントールも深い信仰心をもつようになったと言われています。
1856年にカントール一家はドイツに移住することになるのですが、ここから彼の数学研究が始まります。
1862年にチューリッヒ科学技術専門学校に入学後、ベルリン大学に移りワイエルシュトラス、クンマー、クロネッカーらの講義を受ける機会に恵まれます。
1868年には数論に関する学位論文でベルリン大学の博士号を授与され、翌年ハレ大学で教授職を得ます。ハレ大学では長年の同僚となるハイネと出会うのですが、カントールは彼の助言でフーリエ級数の一意性問題に取り組むようになります。
この問題はディリクレ、リーマンらのそうそうたる面々ですら解決に成功していないものだったのですが、彼は1870年4月にフーリエ級数の表現一意性を証明し、数学界に名をとどろかせることとなります。
1872年にはデデキントと親交を結び、同年、2人は各々独立に有理数、無理数、実数の定義に関する論文を発表します。
順調に思えるカントールの経歴ですが、ベルリン大学の師でもあったクロネッカーがカントールの研究に真っ向から反対していたことから、イジメとも思えるような仕打ちを受けることとなり、この頃から彼は心を病むようになってしまいます。
1873年には有理数は自然数と1対1に対応させることができる(可算である)ことを証明します。翌年には実数ではそれが不可能なこと(非可算であること)を証明しますが、心を病むに至ったことと同じ理由により、その論文を大っぴらに発表することをしませんでした。
その後カントールは、写像の概念に着想を得て、集合論の基礎付けに取り組むこととなります。1879年から1884年にかけ、集合論に関する一連の論文を発表しますが、従来の数学が扱ったことの無い先進性と、記号論理学とも関係するような難解さのため、この論文は周囲から散々な反対意見、悪評を浴びせられてしまいます。
同じ頃、自らが提唱した連続体仮説の証明にも取り組んでいますが、証明に成功したと思ったら、その欠陥に気づいて証明を取り下げる、再び成功、再び欠陥に気づいて取り下げるということを繰り返し、袋小路におちいったようになってしまいます。
そのようなこともあって、彼はさらに心を病み神経衰弱を患ってしまいます。
しかし、カントールはあきらめることなく、その後も病と戦いながら集合論の研究を進め、1897年にチューリッヒで開催された国際数学者会議でフルヴィッツ、アダマールらから集合論に先鞭をつけたパイオニアとして賞賛を受けるに至りました。
晩年のカントールは、心の病がさらに悪化したこともあり、療養所でのくらしが多くなります。
そして、1917年にはハレで最後の療養所生活が始まります。カントールは自宅へ帰ることを望み、妻や家族に何度も手紙を書き送ったそうですが、自宅へ帰るという望みがかなうことはなく、翌年、この療養所で帰らぬ人となりました。
カントールの偉大な足跡
現代数学の公理的体系の基礎は、カントールが切り開いた集合論にあります。この意味で言えば、カントール無くして現在の数学の発展は無かったといっても過言ではありません。
ノーベル賞を受賞した論理学者バートランド・ラッセルは、若き頃、カントールの論文に触れて、次のように語ったと言われています。
「私はカントールの議論の要点をノートに書きだしてみたのだが、その論理は無茶苦茶で誤りだらけだと思った。ところが、その細部を地道に確認、検証した結果、間違っていたのは全て自分の論理だったことに気づいた。」
まとめ
師であるクロネッカーの研究方針と相容れないことから、容赦ない攻撃を受けつづけたカントール。その結果、精神の病まで患ってしまいました。
天才によくありがちな、生きている間は不遇の連続であったというようなエピソードです。しかし、マイナス面ばかりでもなかったはずです。
クロネッカーからの攻撃を受けることで、より完璧で説得力のある証明を目指さざるをえなかったことが、彼の論文、著作の完成度と先見性を高めることに寄与した部分もあったはずです。
自由に解き放たれて努力をしている自覚もないまま開花する才能があります。また逆に、カントールのように、辛い状況で圧迫を受けながらもしっかり自分の花を咲かせる才能もあります。どちらかです。同時に成立することは「集合論」的にいって不可能なのかも知れません。